藤四郎のひつまぶし

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戦国コレクションの根底に流れる思想の危険性

戦国コレクションについては前々から危険性を感じていたが、5話はあまりにもあからさまだったので、ここに書き残しておく。

COLLECTION 5 「Sword Maiden」はサムライの危険性を訴えるドキュメンタリーを中心とした構成のAパートと、それの続編の生放送とその結末を描くBパートで構成されている。
Aパートのドキュメンタリーでは、サムライの危険性がモース事務所の偏向気味の編集によって強調されており、それに憤った塚原卜伝足利義輝柳生石舟斎らのサムライたちがBパートの生放送でモースをハメて、帯刀の必要性をモースの口から言わせるという内容だ。

この作品のどこが問題か?それは社会の問題を個人の問題に矮小化しているところだ。

まずモースがドキュメンタリー番組で偏向気味の編集を行った点について考えてみたい。Aパートラスト、モース事務所でモースが電話でやり取りをしているシーンを見ると、モースが自分の名声のために偏向した編集を行ったようにも見えてしまう。
しかしこの偏向ドキュメンタリーの背景には、テレビ局の経費削減による制作費減少と視聴率至上主義があるのは確実だ。
番組を企画し、取材を行った際、企画に合わない内容が出てきてしまう。そのような場合でも、制作費が潤沢にあれば企画を方向転換、取材をしなおすことができる。しかし制作費がなければ企画と取材内容に乖離があっても、限られた取材内容で番組を作らざるをえない。
またテレビぐらいしか娯楽がなかった時代と違い、今はインターネット、ソーシャルゲームと、テレビのライバルとなる娯楽は数限りない。その中ではテレビ番組も過激なものにならざるを得ず、結果あのような過激な編集になってしまう。

Aパートラストで続編が決まって大喜びをするモース。いつ仕事がなくなるか解らない弱小事務所に、続編の決定はさぞ嬉しかったことだろう。そんな事務所の社員に無言の圧力で無邪気にジュースをせびる塚原卜伝の姿は、なかなか背筋が寒くなる光景だ。生放送で伊藤一刀斎をけしかけられ、殺されかけたにもかかわらず、番組ラストで塚原卜伝に嫌なそぶりひとつせず、新番組の出演を依頼しに行くモースの姿は涙なしには見られない。

この作品はモースと事務所の悲哀には触れない。むしろモースという個人に責任をかぶせ、根本的な問題は無視している。

またドキュメンタリーの中心となった帯刀、武器の使用についても個人の問題へ矮小化している。
5話Aパート。塚原卜伝は言う。

―剣術は人殺しの道具なのになぜ教えるの?
反対のことっぽいけど、人殺しをしなくてすむからだよ
―殺しの技なのに?
人間を殺すことができるってことが大事なの。できるからやらないですむのね
―それはどういう意味?
人は意外と簡単に死ぬよね。それを知っていると簡単には武器を使わないもの。
―でも君は武器を持っている
できるかできないかが問題なの。できないってことは誰も守れないことになっちゃう。いろんなことができたほうが強いよね。
Konami Digital Entertainment,NAS/「戦国コレクション制作委員会」『戦国コレクション』5話

人を殺すことができない=強くないならば誰も守れない。一見正しく聞こえるがこれは強く正しい者の理屈だ。確かに武器を持つ人みんなが、人は簡単に死ぬと気づけば簡単に武器を使うことはないだろう。そして武器を使わずに物事を解決できればなおいいだろう。
だがそれは理想にすぎない。武器は殺傷、破壊を目的としており、人を殺し、モノを壊す能力を秘めている。であれば目的のままに使用する人をゼロにすることはできない。その目的のまま使用する人は何も特別な人ではない。彼も、そして私もあなたも、最初から他人を傷つけようとして生まれたのではないのだ。殺意とそれを達成する力。その二つが揃ってしまうことで人はだれかを傷つけてしまう。人の感情は完全には制御できない。ならば感情を具現化してしまう力、武器の方をできるだけ遠ざけるべきだと私は思う。
大切な人を守るために自分で武器の取り扱いを学ぶ社会と、他人を傷つけるかもしれない人に武器を渡さない社会、どちらが安心できるだろうか?
しっかりと武器と道徳について学んだ最低限の者にのみに武器を託し、正しく武器が行使されているか確認していく社会の構築に力を注ぐべきではないだろうか?

私が戦国コレクションの危険性を感じたのは2話だった。2話では、少女にしか見えず、身元を保証する人もいないはずの家康に、アイドル事務所がアイドルになる契約書にサインをするよう迫る。その異様さに違和感を覚えない人はいない。その契約の終着点は同話のラスト、家康が台頭するまでは人気アイドルであったロザリーの凋落として描かれた。人の才能にしか興味を持たず、人気がなくなれば切り捨てる。それについてマネージャーはこればかりはどうしようも、と言ったきりだ。だが家康はこれからもトップアイドルに座に座り続けてみせるという。

この決断は確かに強い。しかし、強いからそこ私は認められない。多くの人は弱い。強い人の理屈で社会を作ってはならない。
確かに家康はトップアイドルの座に座り続けられるかもしれない。だがそれがトップアイドルの座を奪われた者を、救わなくていい理屈にはならない。社会は弱いものを救えるものでなければならない。

弱いものへ手を差し伸べない世界の肯定。この思想がある限り、私は戦国コレクションを認めることはできないのだ。