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藤四郎のひつまぶし

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センゴク一統記3巻に人の意志と抗えない力が織りなす「現代的」な本能寺の変を見た

マンガ センゴク 思想 紹介

戦国時代モノと本能寺の変

本能寺の変というのは日本の戦国時代を描く作品において、一番盛り上がる場面の一つかと思われます。

まず尾張一国(愛知県西部)すら支配出来ていない状態から、一代で天下を統一しかけた稀代のカリスマ、織田信長が突然の死を迎えるという衝撃。
各方面で戦っていた織田家の武将、近隣大名とのパワーバランスは一変し、絶体絶命だったある勢力は息を吹き返し、あるいは織田家家臣らと同盟を結ぶといった展開に繋がっていきます。

また本能寺の変が起きなければ、戦国時代の終焉は違った形を迎えていたことでしょう。
本能寺の変は稀代のカリスマ織田信長がどのように日本を統一するのか、そして統一された後の日本はどのようになるか夢想する最後のチャンスでもあります。

そして本能寺の変を引き起こした原因の謎。
今のところ、本能寺の変の実行者、明智光秀の動機を確定できるほどの有力な説はありません。
その後山崎の合戦で光秀が敗死していること、光秀を破った羽柴(豊臣)秀吉、そして信長の同盟者であった徳川家康が天下の趨勢を握っていくことなどから、怨恨説、野望説、秀吉、家康黒幕説など多くの説があります。

信長が目指していたものが何なのか、本能寺の変の原因は何か、そして信長の死が日本全国を揺るがしていく様子をどのように描くか。
戦国時代を描く作品では否が応でも注目が集まる部分です。

現在、センゴク一統記ではまさにその本能寺の変が描かれている真っ最中であります。

このセンゴク一統記で描かれている本能寺の変がかなりぐっときたのでここに書き記しておきたいと思います。

センゴクという作品

センゴクという作品は2004年からセンゴクというタイトルで週刊ヤングマガジンで連載が始まり、15巻ごとにセンゴク天正記、センゴク一統記とタイトルを変えて現在も連載が続いています。

このセンゴクシリーズは仙石秀久という武将を主人公としてスタートしました。
仙石秀久はややマイナーな上に、外様大名を従えての遠征で、他の武将の意見を退けて攻撃を決定し、壊滅的な被害を受けて主力級の武将も討ち死にさせた上に、軍をまとめもせず1人自国に逃げ帰るという、戦国史上稀に見る醜態を晒した武将です*1

そんな武将を主人公にするのはかなり意外性があります。
そしてそれ以外にもセンゴクはしっかりと資料に当たり、従来のイメージにとらわれず、時に通説とは全く違う描写をするマンガとして描かれてきました。

織田信長に美濃(岐阜県南部)を奪われた暗愚な武将として描かれることの多い斎藤龍興を、その後策謀で信長を苦しめる一廉の武将として描いたり、織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍の正面衝突として描かれることが多い姉川の戦いを、浅井朝倉の奇襲作戦として描くなど。
現地取材なども行なってのそれらの描写は、私には斬新かつ納得できるものでした。

そういった斬新さと説得力の高さに、無印終盤と天正記の頃に書かれた外伝、桶狭間戦記あたりからやや違った要素が加わってきます。

正直、新戦術を読者サービスとして出したい気持ちもありましたが、結果的にこの作品はそうはなりませんでした。ありていに言えば、歴史事件を漫画的な美しい論理や面白いハッタリで片付けるのは(『センゴク』本編ではともかく)、この作品ではやりたくなかったというところです。
(中略)
大東亜戦争の原因を、軍部だ、ABCD包囲網だ、マスコミだ、農地制度だなどと一元化せず大きな歴史の流れと見るように、桶狭間合戦の信長の勝利も、歴史の流れとして見せたかった。それが伝われば幸いです。
宮下英樹センゴク外伝 桶狭間戦記(5)』(KCデラックス)P242-P244 あとがき

第一部『センゴク』では、(中略)当然、合戦の発端は英雄の激情であり、勝負は知力や武力で決すという形になります。
第二部『センゴク天正記』を始めるにあたっては、合戦の経緯を描くことは変えず、それを、英雄以外の視点、感情以外の抗えざる事情で進行するものとして描きました。
宮下英樹センゴク天正記(15)』(ヤンマガKCスペシャル)P232 あとがき

桶狭間戦記では今川義元天正記では武田勝頼の最後が最終巻で描かれました。
どちらも織田信長が歴史の必然に後押しされた形で勝利します。
その流れを組んで始まった一統記の、最初にして最大となるかもしれない事件が本能寺の変です。

センゴクにおける明智光秀本能寺の変

平時においては数々の政略、調略を手がける知将であり、戦場においては奇妙な化粧をする鉄砲の名手であり、窮地においては足手まといの部下を切り捨てても、他の部下たちが付き従うというという、怪しい魅力にあふれている武将。
センゴクシリーズの織田家において、明智光秀はひときわ異様で謎の多い人物として描かれてきました。

本能寺の変に至るまでを描くのは、織田信長明智光秀の人生を描くのと同じことです。
センゴク一統記3巻では本能寺の変に至るまでの2人が明智光秀側から描かれました。
そこで描かれる明智光秀はそれまで読者が持ち続けていた、「明智光秀という人物は何者なのか?」という問いを、自分自身に問い続ける、自分とはなんなのか迷い続ける人物でした。

その光秀は信長に出会い、一時的に苦悩から解放されます。
何かに突き動かされるように信長の天下統一を助け、信長にもそれが認められるという水魚の交わりとも言える関係。
しかしそれも天下統一が間近になって行くごとに軋みが見え始め、光秀の苦悩が再び始まります。

軋みの原因は信長を押し上げてきたシステムと信長の衰えにありました。
下克上という下の者が上を目指し、上の者はさらに上を目指し、邪魔な者は味方であっても蹴落とすシステム。
あるいはそれまでの戦国大名の米を蓄えるというシステムとは違う、銭を常に回し続けるというシステム。
一国に満たない戦国武将から成り上がっていく信長の原動力となり、後押しをしてきたシステムが、老いて疲れ果てた信長に止まることを許しません。
そして止まってしまえばもはや自分が織田信長ではなくなってしまうと信長自身が自覚しています。

しかし明智光秀はその永遠に続く戦いの先に信長を待ち受けているものは何もない空虚であると見出します。
同時に永遠に続く戦いを民も他の武将も望まないとも、システムを止めることもできないとも理解します。
そうしてシステムに逆らわず、信長を無限地獄から救い、民や他の武将、そして自らに平穏をもたらす道として、信長を排し自分の手で天下に秩序をもたらすという決断をします。

センゴクで描かれる人の意志と時代と社会のバランス

このセンゴク本能寺の変で描かれている、時代の必然と社会の要請といったものと、人の意志のバランスが、自分にはとてもグッと来ます。

明智光秀は時代に流される者にはなれず、自分という存在が何者なのか見つけ出そうとし続けます。
しかしそれは自分一人で思い続けるのではなく、社会の中で人と交わり、目に見えぬ流れや力を感じることで見つかっていきます。

織田信長はそれまでの理にとらわれず、己の意志で道を切り開いてきたなずなのに、いつの間にかシステムに絡め取られてしまいます。
あるいはそれまで築きあげてきた「織田信長」という定義に縛られてしまいます。
しかしそうやって時代や社会といったものに組み込まれながらも、自分が自分たらんともがき続けます。

そんな人の意志だけで物語が動いていくのでもなく、かといってキャラたちが時代や社会に飲み込まれる姿を描くだけでもない、センゴク本能寺の変
そこに私は現代人の自分と社会との関わり方に苦悩する姿がダブって見えます。
そういう意味で、センゴク本能寺の変はとても「現代的」な本能寺の変に私には思えるのです。

現在本誌で連載中でおそらく4巻で描かれるであろう信長の死、そしてそこから始まる新たな展開が楽しみでしかたありません。

センゴク一統記(1) (ヤンマガKCスペシャル)
センゴク一統記(1) (ヤンマガKCスペシャル)