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藤四郎のひつまぶし

プロの素人によるブログ

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虚淵玄さんの描く作品のイメージと翠星のガルガンティア

アニメ 翠星のガルガンティア 思想 考察


アニメのスタッフについて、昔の私はジブリ宮崎駿監督や、ガンダム富野由悠季監督といった方しか知りませんでした。
現在の私もそう多くの人を知っているわけでもありません。
ですが全く知らないかといえばNoです。
ある程度アニメスタジオであったり、著名な監督、脚本家、演出家さんたちを断片的に知るようにはなっています。

作品の色が企画によって決まるのか、監督によって決まるのか、脚本家、各話の演出家によって決まるのか、未だに自分には判断がつきません。
ですが因果関係ではなく、相関関係として、手がけた作品に幾つかの共通点を感じる方がいないわけでもありません。
その1人が虚淵玄さんです。

虚淵玄さんが関わった作品として、Phantom、沙耶の唄ブラスレイター魔法少女まどか☆マギカFate/ZeroPSYCHO-PASSなどがあります。


虚淵玄さんの関わったすべての作品に触れたわけではありませんが、そこそこの数の作品を体験していると思っています。
その経験を元に言えば、虚淵玄さんは異なる価値観をそれぞれ突き詰めて描き、常人から見れば異質な価値観も尊重する作品に携わることが多いのかな、と思うのです。

Fate/Zeroの各マスター、サーヴァントたちの価値観などはその典型かと思います。

Fate/Zero虚淵玄さんが書いた小説がかなり原作に忠実にアニメ化されました。
正義の味方を突き詰め、戦いの根絶を願うあまり、自分の感情にしたがって命の軽重を決められなくなった主人公、衛宮切嗣を始め、常人とは違う魔術師の価値観で動くマスターたち、名誉で動くサーヴァント、愛で動く女と愛を見失う男、殺戮を楽しむキャスターたちなど、戦う動機も戦いの作法も違う者達が集い、その価値観の違いを見せつけるように散っていきました。
生き残った者が最終的な勝利者とは言えるかもしれませんが、勝利者が正しいと描かれているわけでもなく、敗者が間違っているとも、敗者全員が無念のうちに死んだわけでもありませんでした。

虚淵玄さんがシリーズ構成、全話脚本を手がけた魔法少女まどか☆マギカキュゥべえの描かれ方も特徴的です。

キュゥべえは人間とは全く違う価値観の存在として、話し合いの取っ掛かりすらつかめない存在として描かれました。
しかし作品を通してキュゥべえが悪役とは描かれてはいないと思います。
キュゥべえの描かれ方は、年端もいかない少女たちにとっては、話し合いなどに必要な前提条件の共有からして困難な存在、ぐらいに感じました。
結果的にまどかたちを苦しめることにもなったキュゥべえですが、物語の最後まで行いが悪とされ、明確に罰せられたようには見えません。

沙耶の唄は多くの人とはかけ離れた価値観を持つ存在を描いた作品として、かなり極まったものの一つかと思います。

虚淵玄さんがシナリオを手がけた18禁ゲーム沙耶の唄は事故によって知覚が狂い、人々がグロテスクな肉塊にみえるようになってしまった主人公郁紀と、通常の人には肉塊にしか見えない、人を喰う少女(と自らを認識し、郁紀にもそう見えるモノ)、沙耶のラブロマンスであり、ホラー作品です。
主人公とヒロインが認識している世界は常人とはかけ離れており、その行動、目的などは常人には到底受け入れにくいものになります。
ですが本作は2人が目的を遂げることも、あるいは彼らを受け入れない人々に排除されることも、どちらも決定的に間違っているようにも、正しいとも描かれていないように思います。

虚淵玄さんはこのような作品のシナリオ、脚本を任せられることが多い、あるいはこのような作品を描ききることができる方だと推測します。

さて、翠星のガルガンティアのお話です。

アニメが始まるまで、どう見ても軍人のレドと、一見のどかな生活を送っていそうなエイミーという2人には、文化的にも背景的にもほとんど接点というものを見いだせませんでした。
なぜこんなにも共通点を見いだせない2人を主役に据えたかは、1話でおぼろげながらに見え始め、3話で自分なりの結論に至りました。
この2人はほとんど接点がないことこそが重要なのです。
翠星のガルガンティアは異なる価値観、常識、文化、生活様式などを持つもの同士が、どのようにしてコミュニケーションをとるのか、という話だと私は理解しました。

レドとガルガンティア船団の人々には文化的にも価値観的にもいくつもの違いが見いだせます。
特に言語の違いについては本作の特徴の一つかと思います。
異世界召喚ものなど、全く違う文化と触れることになる作品は数あります。
しかしそういった作品では言語の問題を物語のテンポのために意図的に無視したり、共通言語を使ったり、超常の力で意思疎通を可能にすることも多いです。
しかし本作ではチェインバーという翻訳をしてくれる頼もしい存在がいてほとんど不都合がないとはいえ、3話時点までレド自身とガルガンティア船団の人々は直接会話ができていません。

この言語の問題が大事に扱われているのは演出からもわかります。
物語中、レドとエイミーそれぞれの視点で、お互いの言葉が外国語に聞こえます。
こういったとき、登場キャラの間では理解できずとも、視聴者だけ理解できるよう、テロップを使うということも考えられます。
しかし本作ではテロップは使われていません。
おそらく視聴者にレドとエイミーがお互いの言葉が全く理解できていないことを追体験させるためではないでしょうか。
そういった演出からも異なる価値観をじっくり描こうとしていることが伺えます*1

他にも様々な場面で価値観や常識の違いが見て取れます。
1話ではガルガンティア船団では誰も気にしない匂い、おそらく海の匂いにレドが反応します。
2話以降、ガルガンティア船団では食料である魚や動物の肉を、レドは生物の死骸と認識します。
レドの所属する人類銀河同盟にとって、共存は不可能で殲滅するしかない存在である『敵』は、ガルガンティアでは威嚇し、交渉し、ギリギリまで双方の命のやりとりを抑える存在です。
これらの価値観や常識の違いを少しずつ埋めていくのが翠星のガルガンティアの見どころの一つではないでしょうか。

以上のように、私は翠星のガルガンティアを3話まで見て、異なる価値観をじっくり描く作品になると感じました。
それは私が好きなテーマの一つです。
企画にあう人材として虚淵玄さんに白羽の矢が立つのか、虚淵玄さんが手がけるとその持ち味としてこういったものが出てくるのか、はたまた私が勝手に共通点を作り上げているのか、いろいろと考え方はあるのですが、何はともあれ、今期はこの翠星のガルガンティアを楽しんで見ていられそうです。

※ちなみに3話では水上での戦闘が個人的にぐっと来ます。
全然シチュエーションも、登場するロボットも違いますが、1話のハイスペックな宇宙の戦闘と同じくらい凝った戦闘シーンのように感じました。

オケアノス/「翠星のガルガンティア」製作委員会『翠星のガルガンティア』3話、1話

この世界は僕らを待っていた
この世界は僕らを待っていた

*1:余談ですが、翻訳が可能である程度自己判断で会話もできるチェインバーという存在があるとはいえ、テンポを損なわずに言語が通じないやりとりをし続ける脚本・コンテは職人芸のようにも思います