資本主義の犬としての中二病でも恋がしたい
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序章〜資本主義の犬〜
みなさんは「資本主義の犬」をご存知だろうか?
この「資本主義の犬」とはしばいぬ子さんのことである。
しばいぬ子さんは原作が竹書房のショートアニメの後の情報コーナーを担当しているキャラだ。
その愛らしい姿とは裏腹に、萌えアニメから実写の時代劇、果ては自分自身すら売るという姿勢より、資本主義に毒された犬、資本主義の犬と称されることとなった。
この資本主義の犬、しばいぬ子さんは2012年4月から自らもショートアニメとして放送・配信されていた。
そう、「されていた」のだ。
9月に放送は終了し、10月からはまたショートアニメの情報コーナーにのみ出演する存在になった。
では資本主義の犬は衰退したのか?
いや、そうではない。
では勢力を維持したまま、虎視眈々と次の機会を伺っているのか?
いや、そうではない。
資本主義の犬は勢力を拡大している。
ショートアニメではなく、30分番組として私達の前に姿を表しているのだ。
「中二病でも恋がしたい」に秘められた恐ろしさ
中二病でも恋がしたい、このタイトルに引っかかる部分はないだろうか?
懸命なる読者諸君には釈迦に説法かもしれない。
そう、中二病「でも」恋がしたい、という点だ。
中二病は恋をしてはいけないのだろうか?
もちろんそんなことはない。そんなことはあってはならない。
この中二病患者が恋をする権利は否定されて当然、と受け取れるタイトルは現代社会に対する挑戦だとすら言える。
このような不当な人権侵害が見過ごされてはならないことは自明だ。
だが、この点はあまりにもその異常性があからさまであるがゆえに、本作の別の恐ろしさを覆い隠すスケープゴートとなっている。
懸命なる読者諸君はもう一つの違和感にお気づきであろう。
そう、中二病でも「恋がしたい」、という点だ。
恋をする権利は誰にも犯されてはならない。
しかし、恋をしない権利も誰にも犯されてはならない。
中二病患者が全員恋をしたいかのようにミスリードすることは、高校生がみんな文化祭をやりたいかのようにミスリードするようなものである。中には文化祭をやりたくない人だっているんですよ。
だた本作はこの二つ目の点についてすら、スケープゴートとしている可能性が高い。
本作の本当の恐ろしさは、「中二病」、その表現にこそある。
中二恋における中二病
ここで一般的な中二病の定義について詳しく述べることはしない。
なぜならこの言葉は確固たる定義なきまま世の中に膾炙したため、すでに万人が納得するよう定義することが困難なためだ。
だが、一つ自明なことがある。
中二病は病気であるということだ。
中二病は精神に影響を及ぼし、なんらかの行動を引き起こす、とも言える。
なぜこのような自明なことをあえて言及するのか?
それは中二病でも恋がしたいでは、この精神、行動よりも「商品」がクローズアップされているからだ。
ヒロインの小鳥遊六花を見て欲しい。彼女のトレードマークは眼帯である。その眼帯の奥にはカラーコンタクトという「商品」が埋め込まれていることが第一話で明らかにされる。
第二話、小鳥遊六花の部屋を見て欲しい。
そこにはレトロな「商品」が所狭しと飾られている。
第一話、アバンタイトルを見返して欲しい。
そこでは黒き衣に身を包み、剣をとり叫ぶ過去の勇太がおり、そして剣、穴あきグローブなどの数々の「商品」をダンボールに詰め、ベランダに出す現在の勇太がいる。
その剣はお年玉で「購入した」ことが一話で明かされる。
そう、中二病でも恋がしたいでは、中二病が「商品」によって表現されているのだ。
読者諸君の中にはこんなふうに思っている人がいるかもしれない。
考えすぎだ、と。
あるいはこう思っている人がいるかもしれない。
こじつけである、と。
ならば思い返してみて欲しい。
あなたが中二病に使った費用を。中二病によって購入せざるを得なかった商品を。
あなたはお年玉を全て中二病に注ぎ込んだか?
あなたの部屋は中二病の商品で満たされていたか?
明らかに中二病でも恋がしたいは「商品」が過剰なのだ。
中二病でも恋がしたいを制作しているスタジオは京都アニメーション。
このスタジオはギター、ベースなどの数々の「商品」を作中に登場させ、社会的現象を引き起こしたけいおん!という作品も手がけている。
これは偶然だろうか?
いや、そうではない。
中二病でも恋がしたいは資本主義の犬と呼ぶべき作品なのだ。
戦後日本における資本主義の変化
第二次世界大戦での敗戦後、日本は高度経済成長、安定成長の時代を迎え、世界第二位の経済大国の地位を得た。
高度経済成長期は三種の神器と呼ばれるテレビ、洗濯機、冷蔵庫を持つことがもてはやされ、その後のカラーテレビ、クーラー、自動車の新三種の神器にも同じことが言える。
高度経済成長期、安定成長期には銀行は護送船団方式と呼ばれる行政の強力なコントロールのもと経営がされ、他の業界、あるいは国そのものが護送船団方式と呼ばれることすらあった。
国、国民全体が経済的繁栄を望み、一丸となって行動する。
消費者は同じ物を追い求めるため、求められた商品は生産すればするほど売れる。
それが高度経済成長期、安定成長期であったといえよう。
しかしそのある意味幸福な時代はバブル崩壊によって終わりを迎える。
バブル崩壊からの1990年代前半から2000年代前半は失われた十年と呼ばれる不況に見舞われた。
ノストラダムスの大予言もあり、日本にはMMRがはびこった。
街はモヒカン族に支配され、売れる商品は肩アーマーばかりだった。
2000年代のいざなみ景気も賃金上昇率は頭打ちで景気の実感に乏しく、少子化などの影響もあり発展途上国の追い上げを受けることになる。
そして2007年からの世界金融危機を迎え、2010年には経済規模世界二位の座を中国に明け渡し、経済的繁栄はピークを越えた。
それらの情勢は経済的繁栄こそがすばらしいとする価値観への信頼を損ねることとなった。
それまでの経済成長一筋、みんなが持っているものは自分も欲しい、という価値観を信じこませるのは不可能になったのだ。
そこで個性を大事にしようという価値観へと転換がなされた。
しかしそれはお仕着せのものなのだ。
個性とは何かを十分に考えることはなく、ただ周りと違うことこそが個性と呼ばれた。
その周囲との違いは他の人と違う商品を買うことによって達成されると人々は教えこまされた。
それこそが資本主義というシステムを生き長らえさせようする資本主義の犬たちの企みなのだ。
中二病でも恋がしたいでの「商品」プッシュも、資本主義の犬たちが中二病を経済のために利用しているためといえよう。